内海園芸の沿革
内海園芸の成り立ち
父が軍隊に入隊して、広島で駐屯中に被爆し、放射能により生死の境をさ迷い、辛くも生還。
敗戦後、大阪の市電に勤めたが、被爆の影響で体力がなく、辞めざるをえなかった。
広島に帰る前に旧制中学の同級生が、京都で種苗会社をやっていることを思い出し、会いに行っ た。今のF1技術を確立し、今主流の桃太郎トマトなど、野菜の新品種を作り出し続けている、今では 日本で一番大きい種苗会社となっている、タキイ種苗の先代社長でした。
父は、自分の体力に合わせ、作業できる園芸球根栽培を勧められ、昭和27年頃よりダリヤの球根 栽培が始まった。
昭和45年ごろから、ダリヤの栽培が連作障害で難しくなってきたことから、夏場雨が少ない事が生 育の要である、ジャーマンアイリスの栽培適地ではないかと気づき、栽培品目を根本的に切り替えて 現在に至る。
父からの後継
昭和51年ころより、父の手伝いをしながら、軟腐病というジャーマンアイリス特有の病気と格闘 しながら、独自の栽培方法による安定化に取り組み、雨よけ施設の建設に労力と資材を、土壌と環境 改良に労力と多額の資金を必要としたが、その結果、殺虫剤や化学窒素肥料を使用しない栽培を確立 し、土壌の自然化を確立した事により連作障害を回避して永年連作を可能にしている。
父からジャーマンアイリス栽培を引き継ぐとき、単なるお金を得るためだけの農園経営ではなく、 農作業を通して、厳しい社会情勢に心をすり減らす時代を予感して、将来心の病気や、心が疲れはて ている人に、農作業を通して、ささやかな人助けや、心のケアになるのではと、人の役に立つ農園経 営を目指すことを夢見て農園を父から引き継ぐことを決めた。
具体的には、我が家に住み込んでもらっての今までに受け入れた若者は、二人しかいないが、ひと りは1年もう一人は2年半でした。
そのほか、一時的に1週間や15日間等の受け入れも数人受け入れて、やってきました。
毎年、中学生の職場体験学習も受け入れて、毎年2名来ていただいています。